常識が私たちを苦しめていないか
意識の話は最近よく見かけます。
私が意識しているからというのもあると思いますが、それでも少し前からすると、うんと増え、また最近一気に増えたなと思います。
そんなトキなのでしょうか。
結局...
【前提】が自分の【意識】に働きかけ
【現実】になる。
端折って端折って、こんな感じだと思います。
少し前までは
■常識人になるための本
■人に好かれるためのテクニック
■努力するための
■組織の一員として
みたいなコンテンツが普通だったと思います。
でも今は
■自分の好きなことだけをして生きる
■自分らしく
■長所を伸ばす
■そもそも学校って?
など。
真逆のことが言われ始め、なんだか当たり前になりそうな風潮です。
私たちが子供の頃呪文のように教え込まれ、叩き込まれたあれは何だったのでしょうか?
10年20年ほどの前の話です。
体罰という言葉もなく、
パワハラという言葉もなく、
むしろ『それくらいは当たり前だ!』と言われていた時代でした。
今ではニュース沙汰です。
時代は、すごい勢いで変わります。
常識も当たり前のように変わります。
それも、ちょっと変わるとかじゃない。
真逆の価値観が常識として社会に住み着くわけです。
【常識】
というのは、なんだか『正解』のような『ルール』のような錯覚を受けますが、ただの思い込みに過ぎません。
その時に多くの人がそのように思い込んでいることに、常識という枠が生まれるようなイメージ。
ただただ、大多数の人がそう思い込んでいるだけで、正解や真実ではないということ。
大多数の中には、よく考えてたり、しっかりその事柄に向き合ってYesと言った人ばかりではないはず。
雰囲気で、流れで、〇〇さんが言うならYes。
(2.3人を見て)皆んながそう言ってるからYes。と言っているパターンも多いはずです。
そんな私が意図せず、誰かからの思い込みから生まれた常識は一度疑ってみてもいいのではないでしょうか?
【常識人】ってなんか聞こえは良いですが、
一方で、
【人の思い込みを鵜呑みにして自分で考えてない人】と言う解釈も出来るような気がします。
ちなみに。
私は、常識人になりねば!!!
と言う呪いに近い思いに縛られていました。
もっと常識人にならないと。
もっともっと。
恥ずかしくない人にならないと、と。
でも
今その時と自分を振り返ると
『人から見て恥ずかしくない人』
『周りから見てできた人』
と、完全に他人の目を判断基準に生きていたわけです。
ここには物事に対して、自分の正直なに気持ちは二の次。もしくは無かったことになっている場合も多いんです。
自分の正直な気持ちよりも、人の目なのですから。
冷静に考えると、
『なんのために私は生きるの?』
という、素朴な疑問に行き着くわけです。
そしたら、
当たり前ですが、自己肯定感は低くなる、、、
とダークなループに入ってしまうわけです。
常識という見えない鎖に縛られているなら、
一度その常識疑ってみませんか?